ジョージアの芸術に関しては、長年ジョージアの絵画や映画の研究を続ける画家・はらだたけひでさんの寄稿をそのままご紹介します:
ジョージア映画
はらだたけひで
ジョージア(グルジア)映画は、この国の歴史ある民族文化と同じように独特な個性がある。ポリフォニー(多声音楽)のように多様性を元にして、ワインのように芳醇。そしてスプラ(宴会)のように民族の魂を謳い、高めて、人々の心を一つにしてきた。
イタリア映画の巨匠フェデリコ・フェリーニ監督は、このように語っている。「ジョージア映画は奇妙な現象だ。特別であり、哲学的に軽妙で、洗練されていて、同時に子供のように純粋で無垢である。ここには私を泣かせるすべてがある。そして私を泣かせることは容易ではないと言っておきたい」。戦後ジョージア映画の重鎮エルダル・シェンゲラヤ監督は「ジョージア映画はジョージア人のためのものだ」と語る。この国の映画人はジョージア人であること、ジョージア映画を作ることを誇りにしている。ジョージア映画の背景にはジョージア民族の魂そのものがあるといっても過言ではないだろう。
ジョージアで映画が初めて上映されたのは、パリでリュミエール兄弟が映画を世界で初めて上映した翌年にあたる1896年だ。ジョージアで映画が初めて撮影されたのは、ロシア帝政下の1908年、ヴァシル・アマシュケリやアレクサンドレ・ディグメロヴィによる試験的な撮影が行われた年とする。現存する最も古い作品がアマシュケリ監督のドキュメンタリー『アカキ・ツェレテリのラチャ・レチフミへの旅』(1912)、劇映画がアレクサンドレ・ツツナヴァ監督『クリスティネ』(1918)である。この作品によって民衆は自らのジョージア映画に刮目し、この新しい芸術に情熱的に参加してゆく。
ジョージアは1918年の独立を経て、1921年のボルシェヴィキの侵攻後、ソヴィエトに編入されてゆく。映画は「全ての芸術のなかで、最も重要なもの」(レーニン)と位置づけられ、製作環境も整えられてゆく。ソヴィエト下での最初の劇映画はイヴァネ・ペレスティアニ監督『アルセナ・ジョルジアシュヴィリ』(1921)である。当初は外国人が主導し映画が作られていたが、演劇人コテ・マルジャニシュヴィリやツツナヴァが参入することによって、ジョージア人による民族性を背景にした作品が生まれてゆく。ロシア・アヴァンギャルドの芸術家たちもトビリシで盛んに活動し、そのなかでニコロズ・シェンゲラヤ監督『エリソ』(1928)、コテ・ミカベリゼ監督『私のお祖母さん』(1929)、ミヘイル・カラトジシュヴィリ監督『スヴァネティの塩』(1930)など先鋭的な作品も作られる。
1930年代に入ると、スターリン体制下、社会主義リアリズムが提唱され、先鋭的な作品は形式主義と否定されてゆく。そして1937年の大粛清を経て、才能ある映画人も弾圧された。しかし映画はトーキーの時代になり、ミヘイル・チアウレリ監督『ハバルダ』(1931)やダヴィト・ロンデリ監督『失楽園』(1937)等、名作が作られている。
1941年にドイツとの戦争(第二次世界大戦)が始まる。スターリンの指令によって戦意高揚のためにチアウレリ監督の歴史大作『ギオルギ・サアカゼ』(1943)、戦後もヴァフタング・タブリアシュヴィリ、S.ゲデヴァニシュヴィリの共同監督でミュージカルの娯楽大作『ケトとコテ』(1948)など、今日に残る名作が作られた。
1953年にスターリンが死去し、1956年にスターリン批判が行われて「雪どけ」といわれる時代に変化してゆく。モスクワ映画大学で学んだレゾ・チヘイゼとテンギズ・アブラゼの共同監督『マグダナのロバ(青い目のロバ)』(1955)がカンヌ国際映画祭短編部門グランプリを受賞し、若い映画人が硬直化した映画界に新しい息吹をもたらしてゆく。
60年代から70年代にかけて、体制の厳しい検閲にもかかわらず、ジョージア映画は多様に開花していった。アブラゼ監督『祈り』(1967)、チヘイゼ監督『戦火を越えて(兵士の父)』(1964)、ギオルギ・シェンゲラヤ監督『ピロスマニ』(1969)、エルダル・シェンゲラヤ監督『奇妙な展覧会』(1968)、オタル・イオセリアニ監督『落葉』(1966)、ラナ・ゴゴベリゼ監督『インタビュアー』(1978)、メラブ・ココチャシュヴィリ監督『大いなる緑の大地』(1967)等、ほかにもミヘイル・コバヒゼ監督、ギオルギ・ダネリア監督など数多くの才能がそれぞれに独創的な作品を次々と生み出していった。
1980年代には、スターリン時代の暗黒を描いたアブラゼ監督の『懺悔』(1984)が完成し、ソヴィエトのペレストロイカ(建て直し)が進行するなか、1987年に全国公開されて世界に衝撃を与える。『懺悔』は同年のカンヌ国際映画祭で審査員特別大賞を受賞、ナナ・ジョルジャゼ監督『ロビンソナーダ』(1986)も新人監督賞を受賞し、ジョージア映画が一躍注目される。また長く製作を禁じられていたアルメニア人のセルゲイ・パラジャーノフ監督もジョージア映画人の支援で『スラミ砦の伝説』(1984)等を作れるようになった。
1991年、ジョージアは再独立、ソ連邦は解体するが、トビリシで政府と反政府に分かれて内戦が勃発、同時に国内のアブハジア、南オセチアでも紛争が激化し、多くの難民が生まれた。国全体が社会的、経済的に大きな打撃を受け、長期間にわたって映画製作も沈滞した。しかし21世紀に入ると、映画の関係機関が整備されはじめて、国立フィルムセンターの創設、ジョージアフィルム撮影所の復活、トビリシ国際映画祭の開催、膨大な数の旧作品の修復など、厳しい財政のなかで、少しずつだが着実に行われている。
近年では、ザザ・ウルシャゼ監督『みかんの丘』(2013)、ナナ・エクフティミシュヴィリ監督『花咲くころ』(2013)、ギオルギ・オヴァシュヴィリ監督『とうもろこしの島』(2014)など、「失われた世代」と呼ばれる新しい世代が、90年代の苦い経験をもとに作品を発表し、国際映画祭で数多くの受賞を果たして世界の注目を集めた。
また国の再建のために長く製作の現場から離れていた重鎮たちも戻ってきている。エルダル・シェンゲラヤ監督は『葡萄畑に帰ろう(原題・椅子)』(2017)、ゴゴベリゼ監督は『金の糸』(2019)を発表、加えて太古の精神世界を背景にザザ・ハルヴァシ監督は『聖なる泉の少女(原題・ナメ)』を発表するなど、今日では、さまざまな世代の監督たちが、資金難に苦しみながらも、多様に作品を発表するようになっている。
ニコ・ピロスマニ(ニコ・ピロスマナシュヴィリ) ნიკო ფიროსმანაშვილი
ピロスマニとは、ジョージア(グルジア)を代表する独学の天才画家。本名はニコロズ・ピロスマナシュヴィリ。彼の人生については生年、没年等、記録がないため諸説ありますが、一般的な説として、1862年ロシア帝政下の東ジョージア、カヘティ地方にあるミルザアニの貧しい農家に生まれました。その後、一家はアルメニア国境近くのシュラヴェリにあるカランタロフ家の葡萄畑で働くようになります。(シュラヴェリに移った後に生まれたという説もあります)。父はアスラン、母はテクレ。2人の姉マリアムとペペ、そして兄ギオルギがいました。ピロスマニがまだ幼い頃、兄、父、母が相次いで亡くなり、カランタロフ家は母の遺言に応えて彼を引き取りました。
カランタロフ家は、アルメニア出身の裕福な貴族。一家は1870年代にピロスマニを伴ってチフリス(現在の首都トビリシ)に出て生活をはじめます。ピロスマニは家族の一員として可愛がられ、読み書きを習い、観劇にも連れていってもらいました。しかし、彼が20代半ばになった頃、一家の三女、未亡人のエリザベドに恋文を出したことから騒動になり、家を出ることになります。
友人ギゴ・ザジアシュヴィリと看板屋を始めるもののすぐに挫折、1890年春、ザカフカス鉄道に就職し、貨物列車の車掌としてカフカス地方一帯を旅します。しかし、体調を崩しがちで、1894年に仕事を辞めてしまいます。その後、ディミトリ・アルギシュヴィリと乳製品の店を開き、繁盛しますが、2人の関係は悪化し、友人関係も事業も破綻してしまいます。また、ミルザアニにいた姉のペペとも金銭関係でトラブルとなり仲違いし、ピロスマニは一層孤独な生活を送るようになりました。これは1900年前後のことです。
ピロスマニはチフリスの街なかを転々としながら、その日の酒や食事と引き換えに、店の看板や壁に飾る絵を描くようになりました。友人、知人からは「ニカラ」という愛称で呼ばれ、主に居酒屋の主人たちが画材や宿の面倒をみていました。そして誇り高く、黒いフェルト帽に背広という西洋風の服装から「伯爵」と呼ばれたりもしていました。
1905年フランスからマルガリータという女優がチフリスに巡業でやってきた際に、ピロスマニは彼女の姿を絵にしています。この二人の関係をテーマに、ロシアのアンドレイ・ヴォズネセンスキーが作詞、ラトヴィアのライモンズ・パウルスが作曲した「百万本のバラ」の歌は、1982年にロシアのアーラ・プガチョワが歌って大ヒットし、日本でも加藤登紀子によって知られています。しかし二人の交際の真相は明らかではありません。
1912年初夏、若き3人の芸術家、詩人イリヤと画家キリルのズダネヴィッチ兄弟(母方がジョージア人)、フランスの画家ミハイル・ル・ダンチュがチフリスを訪れ、ある居酒屋でピロスマニの絵を発見し強い感銘を受けます。彼らはモスクワの仲間に知らせ、翌1913年3月、モスクワの前衛美術展「標的」でピロスマニの4作品が紹介され、熱烈な支持を受けることとなります。
1916年グルジア芸術家協会が設立され、ピロスマニへの支援が決定します。5月5日にはキリル・ズダネヴィッチのアトリエで1日だけの個展が開かれ、80人もの来場者があったといわれています。5月25日、ピロスマニは芸術家協会の会合に招かれ「街の中心に大きな木の家を建てて、みんなで集まり、芸術を語り合いましょう」という有名なスピーチをします。しかし、7月10日、地元のサハルホプルツェリ紙にピロスマニを揶揄する戯画が掲載され、周囲から笑いものにされた彼は深く傷つき、ふたたび孤独な生活に戻ってゆくこととなるのです。
一般的な説では、1918年春、復活祭の日、隣に住む靴職人アルチル・マイスラゼが病気で動けなくなっているピロスマニを発見。知人に病院に搬送してもらうが、その一日半後にこの世を後にし、共同墓地に埋葬されたといわれています。しかし、亡くなった年月や場所もふくめて、今日でも様々な説があり、埋葬場所も明らかではありません。
死後、彼を支持する芸術家たちを中心に、絵の収集が始められ、証言も記録されています。1919年には早くもチフリスで回顧展が催され、1926年には最初の評論が出版されました。
ピロスマニは、独自の黒いキャンバス、あるいは厚紙の上に絵を描いていました。外国製の高級品が多い、絵の具はチューブから出した原色をそのままに使い、テーマは人物や動物、ジョージアの風物、歴史などで、ジョージアの風土に育まれた、この地の人々には身近なものばかりでした。生涯に1,000点から2,000点も描いたといわれています。
かつてはフランスの画家アンリ・ルソーらとともに素朴派に分類されていましたが、彼の絵の特徴、イコンのような正面性、対称性、平面性、内在する精神世界と民族性などから、現在では流派ではなく一人の天才画家として語りつがれています。パブロ・ピカソは、1930年代の早い時期にピロスマニの絵を見て、知人に「ジョージアに私の絵は必要ない。なぜならピロスマニがいるから」と語り、1972年には彼の絵を描いている姿を銅版画にしています。
今やピロスマニは、ジョージア人の魂を象徴する人物として、人々に愛されています。彼の絵や姿はジョージアの紙幣や貨幣にもなっており、トビリシの街のいたるところで彼の絵の複製を見ることができます。演劇やミュージカル、交響曲にもなり、日本では1978年に公開されたギオルギ・シェンゲラヤ監督の映画『放浪の画家ピロスマニ』(1969)によって広く知られるようになりました。映画ではセルゲイ・パラジャーノフ監督の短篇「ピロスマニのアラベスク」(85)も知られています。
現在、確認されているピロスマニの絵は約220点。ほかに10数点の作品に対し真偽が議論されています。現在、ピロスマニの作品は、主にトビリシの国立美術館をはじめとして、カヘティ地方にあるシグナギの国立美術館やミルザアニのピロスマニ記念館に所蔵され、展示されていいます。トビリシ中央駅近くのピロスマニ通りには彼の最晩年の住まいが残されています。
ピロスマニの展覧会は世界中で行われていますが、日本では1977年東京国立近代美術館の「素朴な画家たち展」で4作品が紹介され、1986年西武美術館の「グルジアの放浪画家ニコ・ピロスマニ展」では多くの代表作が展示されました。近年では2008年渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムの「青春のロシア・アヴァンギャルド展」でも展示されました。
20世紀にピロスマニと並び、グディアシビリ、オツヘリ、カカバゼなども国際的に名をあげました。
ラド・グディアシビリ(1896年—1980年) ジョージアのトビリシ生まれ。ジョージアで美術を勉強した後、フランスに留学。パリでイグナシオ・スロアガやアマデオ・モディリアーニなどと知り合い、展示会を設け、画家として名を挙げました。1926年にジョージアに戻り、ソ連の圧政的な政権下で芸術の自由を追求。悪と善の相克、美の追求、親子の関係、暴虐に対する抗議、理想と現実、などがグディアシビリ作品のメインテーマとなっています。
1960年代から長野県上田市と深い交流が行われていたことが、最近再発見され、ジョージアで話題となりました。上田市出身の理論社の創設者を故・小宮山量平編集長はグディアシビリと出会い、ジョージア文化にあこがれを持つようになったといわれています。1972年に「わたしのラド・グディアシビリ」という版画集が日本語で出版。小宮山氏の子孫が管理するEditor’s Museum 「小宮山量平の編集室」には、グディアシビリの作品が収蔵されています。
ペトレ・オツヘリ(1907年 — 1937年) ジョージアのクタイシ生まれ。30歳で死去、短い人生で数々の傑作を描きました。100年前にオツヘリが作成したデコレーションやコスチュームなどのデザインが未だに近代的と思われ、世界中の漫画家やイラストレーターに影響を与え続けています。